深部310km地点

変に明るく、変に暗い

21.飛んで音に入る

  一人旅初日。本日は雨。折角の旅行だがあまり遠くに行くのも億劫なのでホテルの部屋で微睡んでいたところ、窓の外から突然かなり好みの格好いい曲が聴こえてきた。アルトサックスと金管楽器の音。吹奏楽部か?と思い近くに学校があるか調べるも見当たらず。私は思わず窓際に腰掛け、曲を聴き入った。窓の外を眺める黒猫の如く。名前は知らないがスピード感とノリが良く中毒性があり格好良い…ふと中高時代の部活動を思い出した。音楽は辛いことも空虚感も何もかも全て吹き飛ばせる。全て忘れられる。虚無であった私の過去は音楽が埋めていたのだ…と感傷に浸っていると、曲は終わってしまい再び静寂が訪れた。ひょっとして今日はどこかでライブをやるのだろうか。リハーサルをやっていたのかも。調べてみた。今いるホテルのすぐ隣のバーのHPを開くと、丁度今日の18:30からライブをやるらしい。楽器パートも一致している。多分ここだ。現在17:50。行くしかない。私は急いで出かける支度をし、飛び出すように部屋を後にした。

  勢いよく出てきたとはいえ、違うバンドだったらどうしようか…と不安になったが、そんなもの今更感じる不安ではない。店に入ってみた。階段を上がると、落ち着く色の間接照明と低めのソファとテーブル。奥にバーカウンターを構えていた。店員の方が出てきてカウンターに案内されたが、常連の方に場所を空けた。直感に身を任せふらりと訪れた人間にとってカウンター席はあまりに恐れ多い。ピーチツリーのソーダ割を頼み、カウンターから離れた奥の緑色のソファに腰掛けた。
  演奏が始まった。奥の席で演奏者の姿が全く見えないが、曲が聴ければそれで良い。

  曲を浴びた。頭を溶かすソロパート。腹に響く低音。これぞライブに参加している実感だ。これが味わえれば今回の選択は大大大正解なのだ。第二部で窓際で聴いた例の曲が演奏された。やっぱりこのバンドだった。本能のままに飛び入り参加した甲斐があった。間違いなくこの連休一の良い日だ。

  私以外に来ていた観客は、バーの常連客のようだった。おそらく店員側も誰だこいつは?となったことだろう。誰でも良いだろう。私は偶然聴こえてきた素敵な曲に誘われ現れた、街灯に引き寄せられて来た虫のような存在だ。そういう習性だ。できれば演者の方に“あなた方のリハーサル曲を隣のホテルから偶然耳にして急遽聴きに来ました。とても楽しめました!ありがとうございます!”とでも言えれば良かった。後悔が残る。アンチ話たがりの人間には難題だ。伝えられなかったのでこの場を借りてネットの海へ放流する。

  一つ予想外だったことがあった。ライブ開催により、食事提供が無かったことだ。酒だけ摂取し眠るのは気が引けるので、駅前のマックに立ち寄りハンバーガーをホットコーヒーで流し込んだ。21:30。雑な生活。私が私として思考し生きている。過去最高に自由だ。私至上。

20.イチゴ味の憂鬱

午前2時、私は私の死体と対話する。布団に包まったまま、まだほのかに温もりが残る肉塊と私は一部屋を共有し、隣に座ったり、寄りかかったりしている。ひょっとしたらまだ生きてるかも…と布団を退かし瞼を開けてみるが、瞳孔は開きっぱなしだ。私とそっくりの肉塊。思えば、体調を崩し長期休暇を取り始めてからどれくらい経っただろう。もう何も憶えていない。思い出せない。思い出したくない。今の私は、死体の私に脳を置き去りにしてしまい、すなわち無脳なのだ。今考え事が出来るのは、生前の私が直前に考えていた事で、今の私はこれを延々と繰り返す。リピート機能をONにしたまま死んでしまえば、当然の結果だ。脳が無いのでこれしか出来ない。新しい事を始めるキャパシティも存在しない。…?いや、存在する。本来脳があった空洞に入れてしまえば良い。そうだ、これで良い。丁度空き部屋に何を入れようか迷っていたのだ。頭頂部に穴を開け、土を入れて植物でも育てようかとも。幾多のフルーツと牛乳を入れ、ミキサーとして使えばスムージーも作れる。セメントを流し込み穴を埋めてしまっても…いや、これはやめておこう。早くしないと新しい脳が再生する。とりあえず頭の底にミキサーの刃を忍ばせる。窓から朝日が差し込み始めた。まずい、新しい脳は陽の光で再生が促されるのだ。朝になると私の死体は跡形もなく消滅してしまう。死体処理をせずに済むのでその点楽である。新しい脳が働き出す。困った。また私は死体になる運命なのか。私は死体になり、死体は私になる。循環システムが知らぬ間に構築されている。私は身体を強張らせる。すると頭の底に忍ばせておいたミキサーの刃が回転し始めた。新しい脳はたちまち掻き回され液状化した。頭の中に液体が常在するのも気分が悪い。私は頭を便座に突っ込み液状脳を流し入れた。イチゴが入ったデザート後の吐瀉物だ。今日は良い日になりそうだ。

19.腐敗ガス中毒

社会の例に倣い職探しをしていた。流れに身を任せすぎた結果そうなってしまった。しまった。私は将来的には仕事に就いて安定した収入を得たいが、職探しにおける私にとっての適正時期が世間とズレていると常々感じていた。何においても、適正時期でないとやる意味が無い。不適正時期の私のやる気は0だからだ。何をしても身にならない。時間の無駄だ。例え今取り組んだ方が後々楽だとあらゆる方向から勧告されたとしても。全てはタイミング。故にタイミングを間違えないように秒単位で人生を眺める。電線に乗り、対象が見えなくならないように前後に伝いながら。電線に止まる小鳥にうっかり食われないようにしながら。己と世間との適正時期の一致度と人生の難易度は負の相関にある。そんなものは知らない。邪魔だ。見て見ぬふりをする。見て見ぬふりをすると決まって嘲笑される。気付いていない。自ら落ちぶれに行っている。と。私は波に呑まれ自分が死んだ事にも気付かずに生体を嘲笑う水死体と関わりたくないのだが。ただ、私にも彼ら水死体に憧れる要素はある。存在意義がはっきりしていそうな点だ。居場所がある。群れをなし、巨大な水死体となれる。体積で見れば到底勝てない。私はその巨大な水死体の一部となりたい。そして、内側から破壊の限りを尽くしたい。めちゃくちゃにしてやる。それにはまず水死体にならないといけないのだ。腐敗ガスは私の体内を侵す。半年くらいならいけるかも。反吐が出る。やっぱり無理だ。計画はやめだ。計画を立てるとそれに抗うように行動する性質。我ながら面白い。かと言って絶対に達成されてはならない計画を立てるとそれに向かって努力する。面白い。我が計画は達成されずして初めて計画"だった"と分かる。非表示の計画。私が私としていられるようにするための。有言不実行。不言実行。私の座右の銘だ。これは信用されない。他人に信用されない限り、私であることの証明となる。

18.水棲哺乳綱ヒト科

今日の仕事が終わった。定時とともに足早にずらかる。ここの空気は最悪だ。ドブを啜ったような味がする。私の通勤手段は自家用ミニヘリコプター。身体の大きさギリギリに設計しており、搭乗した重みを感知して自動操縦により自宅へと導かれる。玄関は屋上だ。家に入る前に潜水服を身に着ける。ヘリでの移動中に凝り固まった身体を伸ばすため、ストレッチ。帰宅準備ができたら、玄関前のポールに掴まり、下に降りてゆく。2m程降りると、いつもの水面。やっと家に着いたと実感する瞬間。そのままポールを伝い、ゆっくり潜水。帰宅後は、とりあえずスマホをスピーカーに繋げ、とりあえずTVを付ける。TVの薄ぼんやりした明かりが付く中に流れる、ゆったり、かつデジタルな鋭い音。部屋の隅に住むイソギンチャクが音波につられて動く。TVの内容は気にしない。欲しいのは不規則に変化する光源。10分程したら、夕飯の準備をしよう。食材は専らシーフード。水中で食べるには、他の食べ物はあまりにも不適応だ。スナック菓子は一瞬でしなしな、ふやけて部屋が汚れてしまう。巨大貝やエビの食料としてそれはそれで良いが…。本日は火曜日。サメたちと食事。肉料理。魚料理か。ダイニングテーブルにつき、胸びれに互いに触れ円陣を組み一礼。食事を開始する。サメたちの食事は気が抜けず、食べ物をテーブルから落とそうものならあっという間に部屋がめちゃくちゃになる。またか~となりつつも、密かに片付けを楽しむ自分がいる。私と暮らすサメたちは本来人間を喰らう種類であるが、サメにも思想はあり、彼らは全員人を喰わない主義だ。私による選りすぐりのサメたちだが、過去にファッションとして主義を掲げるサメもいた。あまりにも危険。以来私は、月に2度程の頻度で人間の腕を食卓に出し、挙動を伺っている。もちろん思想が変わる事もある。自分と異なる考えをもつ集団に居続けるのは苦痛だ。私は手土産を渡し、お見送りをする。手土産の中身は人間の手。手だけに。食事が終われば彼らは自由時間だ。世間一般で言う入浴は帰宅と同時に済ませているようなものだ。部屋の隅のワカメが葉を靡かせる。スーパーで購入したが、よくここまで成長した。味付きを買ってしまい、しばらく部屋が美味しくなっていたが。明日はまた仕事か。地上に出なければならぬのか。水中の適度な水圧が私の身体を揉み解し、癒してくれるというのに。地上にはそれがない。身体が緩んでダルダルだ。内臓すら飛び出そうになる。地上が水没すれば、私は生きやすくなるのかも。海面上昇の夢を胸に抱き、私はネムリブカに擬態した。

17.葬式part1

 先輩が死んだ。この旨のメッセージを受け取った時、何か身内での冗談が外部に漏れ出たのだと解釈し、くすりと笑ってしまった。この人たちは仲が良いなあと思ったりもした。数十秒後に続けて届いた通夜のスケジュールを見て、ようやく冗談ではなく事実だと認識した。私は当時、身の周りにいた関わったことのある人間が亡くなるという経験をしたことが無かった。人の死を冗談だと思っていた。正直今でも少し思う。人間はいずれ死ぬし、その時がいつ来るかもわからないことは分かっていた。だからかもしれない。予測不可能で修正不可能な事象は、目の前に現れたその瞬間に受け入れるしかない。しかし、それに対する受容には幾らかのエネルギーが必要であり、人によっては見なかったものにしたり、反発したりする。私の場合は、受容する前に、一旦冗談として仮の受容を経る必要があるというだけだ。ところで、私は身近な人間の通夜は初体験だ。酒が弱い身がお洒落で高級なバーに行くことになったくらいの心持ちだ。現場で出来る限り体験したいし、雰囲気も余すことなく目に焼き付けておきたい。何しろ滅多に行く機会のない場だからだ。ドレスコードはもちろん喪服だ。しかし、人が死ぬことに対して用意周到であるわけでもなく、結局既に所持していた黒のスーツで参加することにした。非常に心残りだ。場をわきまえた適当な服装は礼儀の一つだと考えており、黒スーツであっても、私は無礼な人間だと感じた。

会場に着いた。同期や先輩、後輩はすでに到着しており、ロビーの一か所に集まっていた。故人の関係者も大勢来ており、ロビーは黒ずくめだ。葬儀屋の方々は、悲しみに包まれる参加者の邪魔にならないような接待をする。声色は控えめで、笑顔の代わりに凛々しさがある。この慎ましさの格好良さよ。見習いたい。実際、式の次の日に入っていたアルバイトで図らずも参考にしてしまっており、自分の姿に内心笑っていた。変にしんみりしたコンビニ店員が爆誕した。式が始まり、喪主や関係者によるスピーチが始まった。周りで鼻をすする音がそこかしこで聞こえたので、私も鼻をすすってみたりした。この冗談めいた行動を見よ。まだ先輩の死を仮受容している段階だと分かる。式でのBGMは、ポップスのピアノアレンジで、生演奏だった。以降しばらく、私はここで聴いたポップスを街で耳にするたび先輩の死を思い出すようになった。呪いだ。

式が終わり、棺桶に花を手向ける時間が来た。この時、初めて故人、いや正確には人間の遺体を始めて見ることとなった。肌の色は悪く、当然動く気配もない。蝋人形のようだった。私は目の前にあるこの物体が動いている様子が記憶として確かにあり、会話したことも触れられたこともある。そう考えるとよくわからない気分になった。マイナスもプラスもない、プラマイゼロの感情だ。認識できないほどの色々な感情が相殺した結果なのかもしれない。気づくと、私は私の事を好ましく思っていないであろう先輩の一人に怪訝な顔で見られていたため、棺桶から離れることにした。

二日目はよく分からず参加したが、特筆すべきことはなく、記憶にない。確か出棺であったか。出棺時のサイレンが何かに似ていた。船の出港時の汽笛のようなそんな感じだ。人の死に対する自分の感情が未だに分からない。二度と会えなくなり、その人の情報は今後一切更新されない(遺書や生前の作品の発見は例外)が、生前の様子は我々の中に残っており、そこで生き続けている。より親しい人間であれば、これを言っておけば良かったなどの後悔があるかもしれない。推測だが、この後悔は自分が死ぬまで絡みつく気がする。いつか来る相手の死を見据え、伝えておきたいことは伝えておく方が良いのか、しかしこれはあくまで自分が苦しまないための対策ではないか。私の中で、人の死は想像以上に巨大で複雑な感情となるほど固執してしまう事象かもしれない。あるいは、自然の移り変わりの如く人の死それ自体については何も感じていないのかもしれない。一つ分かったことは、人の死によって私の感情メーターはゼロ目盛り付近で数年間微細動することだ。

16.神経叢アクセサリ

指示されたことを指示通りに間違いなく遂行する。つまらない日々。にも関わらず未完成な仕事ぶり。規律を破りたくなる衝動に駆られてしまう。私が本気で規律を破ろうものなら老舗の巨大組織などいとも簡単につぶせるだろう。気の向くままに災いを起こすのみだ。まるで山から下りてきた野生動物のようにひと暴れする。人間の脳を持った野生動物は、人災の出どころを知っている。不注意を装い、人間が作った組織に的確にダメージを与えるのに長けている。人脳を有する野生動物は、後の事を考えない。今その瞬間が自分にとって都合が良ければ後のことなどどうでも良いのだ。その時にはもう本人は現場にいないのだから。見えないものは無いものと同じ。見えにくいものを無いものとして捉えるか、より見やすくするように努めるか。人間の分岐点。先述の野生動物は人脳を上手く使いこなせていないタイプの個体であった。それもそのはず、人脳が収められている培養槽をショルダーバッグのように下げ、無計画に走り回っている。これでは人脳はただのアクセサリーだ。培養槽が振り回され、人脳が槽の壁にぶつかりダメージを受けている。所々表面が削れ、ふやけている。水族館のマンボウの鼻の先のようだ。本来ならば、人脳は野生動物の頭部に縫い付け、脳同士を電極で接続しなければならない。痛みを伴うし、なによりこの施術にはエンジニアが身近に必要だ。それに定着するまで長時間を有する。環境と根気がものを言う。苦痛を避けたい野生動物にとって、人脳をアクセサリーとして捉え持ち歩くタイプがいてもおかしくない。人脳をアクセサリーとして身に着ける方法は、何もショルダーバッグだけではない。人脳を象ったタトゥーを頭部に入れる者、人脳型の小さいピンバッチを身体のそこかしこに刺し止める者、人脳を解いたような見た目の紐を四肢に巻き付ける者など様々だ。そしてそれらのアクセサリーはいつしか体内に吸収され、正しい装着がなされている人脳とそう大きく違わない定着をみせることがある。私は、その神秘的な現象に心を惹かれてしまう。本人達ですら気が付かない間にアクセサリーが吸収され、アクセサリーが身体の一部となり、表面から消滅する瞬間。独特な工程を経て人間と野生動物のキメラが誕生する。ステレオタイプの工程を経ずに成形されている個体は、纏う空気も独特である。全ての個体が異なり、全ての個体が良さを持つ。そして、彼らのコア部分にはトポロジカルな同一性が見られる。独特な工程を経て生まれたキメラのステレオタイプ。私はこれをガラスで覆い、ライトアップして自宅の地下にあるショールームに飾っておきたい。昼は無計画で走り回る人脳のアクセサリーを身に着けた野生動物、夜は世にも珍しいキメラのコアを展示する地下室のオーナー。展示室は会員制。常連にはコアの粉末を添えたカクテルをふるまう。摘発されても、こちらは毒薬物は一切使用していない法的にクリーンな運営である。実際どんな薬物検査にもひっかかりはしない。完全に未知の組成であり、特定のしようがないのだ。特定されようにも法律が存在しない。どうやら私は人脳よりもキメラのコアを好むようだ。しかし人脳を手放すのはそれはそれで名残惜しい。人脳を浸す培養液にキメラのコアの粉末を溶解させ、様子を見てみよう。上手くいけば私からキメラのコアが生み出せるのだ。地を這う野生動物とはおさらばだ。

15. 炎式洗濯

コオロギの朝、コオロギとして鳴く。貨物列車は道を逸れた。花畑に到着。無人駅。人間の代わりに虫がたくさん。終点、花畑駅。運賃は花粉団子。ミツバチ駅長が受け取ってくれる。子供を育てるため。ここには汚いものは何もない。雲一つない空、ネモフィラ畑が目立つ。1ヶ所のみ、狭い区域で咲いている。縦180cm、横50cmといったところか。まるで人が埋まっているかの様な面積。好奇心が沸くが、ここには汚いものはあってはならないのだ。ボロボロの線路を辿る。しばらく使われていなかったせいか、線路内にも花で溢れている。彩度の高い赤、青、黄、紫の花と、緑の葉。それ以外は何もない。辺り一面の花。身動きが取れない。それほどに見惚れている。広大な土地が広がっているのに、ここから先は進んではいけないと言われているかのようだ。ボロボロの線路は汚いものとしてカウントされないのか。されない。傷の多さは強さを象徴するため、綺麗事としてカウントされるからだ。私は線路に放火した。ボロボロの枕木は、真っ黒な木炭へと生まれ変わった。炎が炙り出す真実。最端の枕木をはじめとし、来た方向へと次々に放火した。次々と暴かれる真実。いつしか線路内に咲いていた花に燃え移り、辺りは火の海へと化した。明度の高い赤、青、黄、紫の炎と黒い煙。綺麗事が本当に綺麗なものへと変化した瞬間である。気がつくと、辺り一面は黒一色だった。綺麗な光景は一瞬の出来事のように思えた。二度と見られないようだ。寂しさを覚える。青空の下、一面花畑であったこの場所が、炎により洗われ、すすがれ、乾燥され、焼け野原となる。綺麗な光景は一体どちらか。水を使った洗濯機にとっては、皮脂、泥が汚いものであるが、炎を使った洗濯機にとっては、綺麗事、見せかけのベールこそが汚いものであると語っている。どうやらそうらしい。本人が言っているのだから。私は焼け落ちたかつて花だったものを踏みしめながら、かつてネモフィラ畑だった地点へと足を運んだ。てっきり棺に納められた人骨が現れるかと思いきや、出てきたものは年季の入った双眼鏡であった。その横に紙切れ。次の花畑を目指せと書かれている。若干の不快感。どこの誰かも分からない存在に、命令される筋合いはない。綺麗なものを見たお陰で、私の思考は正常を保っているようだ。私はかつてネモフィラ畑だった地面へ寝そべり、辺りで燻る煙を感じながら眠りについた。